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[9908] 伊勢神宮の齋宮の記録  神奈備 2009/07/03(Fri) 08:57 [Reply]
崇神 5年 天照大神を豊鋤入姫命に託し、ヤマトの笠縫邑に祀った。

垂仁25年 天照大神を豊鋤入姫命からはなして、倭姫命に託された。伊勢国に至った時、天照大神は伊勢国は浪のうち寄せる傍国の美しい国、この国に居たいと託宣。五十鈴川の辺に齋宮。

景行20年 五百野皇女を遣わして天照大神を祭らしむ。

雄略 1年 栲幡姫皇女、伊勢大神の祠に侍り。
   3年 栲幡姫皇女、伊勢大神の祠に侍り。姦淫妊娠。五十鈴川の川上に神鏡を埋めて経死。

継体 1年 507 荳角皇女、伊勢大神の祠に侍り。

欽明 2年 541 磐隈皇女、初め伊勢大神に侍へ祀る。後に茨城皇子に奸され解任される。

敏達 6年 577 日祀部を置いた。他田に置かれたと言う。三輪山の日神を祀ったものと思われる。
   7年 578 菟道皇女を以て伊勢の祠に侍らしむ。池辺皇子に奸される。事顕れて解けぬ。

用明前期 585 酢香手姫皇女を以て伊勢神宮に拝して日神の祀り奉らしむ。推古天皇の世に及ぶ。ある本に曰く、37年間、日神の祀に奉る。

天武 1年 672 朝明郡の迹太川の辺で天照大神を望拝みたまふ。天照大神の名はまだない。
    2年 673 大来皇女を天照大神宮に遣侍さむとして、泊瀬の齋宮に居らしむ。
    3年 674 大来皇女、泊瀬の齋宮より伊勢神宮へ向でたまふ。泊瀬に籠もっている間に社殿建立?

持統前期 686 大来皇女、弟の大津皇子の謀反で任を解かれる。後任の指名はない。

文武 2年 698  9月 當耆皇女を遣わして齋宮とし、伊勢神宮に仕えさせた。

所で幾つかの疑問があります。

疑問1 齋宮は、何故、やたら犯されるのか?
雄略9年 凡河内直香賜と采女を胸方神に遣わし、香賜は神域で采女を犯した。
舒明8年 釆女を犯した者を取り調べて、みな処罰した。
と言う記事もあります。

疑問2 伊勢への齋宮は本当はいつ頃からか。皇祖神でなくとの齋宮を出すのは賀茂神に例があります。伊勢神宮が皇祖神を祀る神社以前に齋宮がでても不思議ではありませんが。
齋宮のはじめは雄略継体天武の頃か?

[9907] Re[9906][9887][9886][9884]: 上賀茂神社と秦氏  神奈備 2009/07/01(Wed) 09:50 [Reply]
> 韓国や対馬は知らないけど、上賀茂神社の立砂は三角錐ではなく、円錐ではないでしょうか?

おっしゃる通りです。
どのようにして小石を積み上げるのでしょうかね。
砂時計のように上から砂を流すのかな。

[9906] Re[9887][9886][9884]: 上賀茂神社と秦氏  あれ 2009/06/30(Tue) 19:31 [Reply]
> も一つ、韓国には天の祭=農耕祭があります。百済では蘇塗といいいます。
> 三角錐の積石を作りその上や横に木を建て、そこが聖域です。
> 対馬にも海岸にたくさん三角錐の石積があります。
> 上賀茂神社の立砂は三角錐の盛り砂でここに神様が降りてきます。沖縄には三角錐の積石はありませんか。

韓国や対馬は知らないけど、上賀茂神社の立砂は三角錐ではなく、円錐ではないでしょうか?

[9905] Re[9904]: 継体天皇について  神奈備 2009/06/26(Fri) 09:07 [Reply]
> 以前NHKラジオに出演されていた八幡市の郷土史研究家が、継体天皇が始めに八幡市に上賀茂神社、下鴨神社を造ったと聞いたことがあるのですが、いかがでしょうか。教えて下さい。

 賀茂の神々は元来は雷神ですから、継体天皇が交野宮か筒城宮におられる時に雷神を祭ったことは十分考えられますね。
 是非はともかく、地元の郷土史家の情熱と地道な研究には頭が下がりますね。

[9904] 継体天皇について  てる 2009/06/25(Thu) 18:02 [Reply]
以前NHKラジオに出演されていた八幡市の郷土史研究家が、継体天皇が始めに八幡市に上賀茂神社、下鴨神社を造ったと聞いたことがあるのですが、いかがでしょうか。教えて下さい。

[9903] 物部と蘇我  神奈備 2009/06/24(Wed) 17:25 [Reply]
『蘇我氏と大和王権』加藤謙吉著 から

畿内と東北を除いた物部地名(神社、人名、郷名、首名など)の郷がある郡に他の氏族の郷の数を表にしたものです。例えば土佐国香美郡には、宗我郷があり、物部郷があります。これが蘇我氏の重複郡の1に計算されています。

氏族   郡数   重複郡   重複率%
蘇我   28   15   54  大
物部   91   91   100
和珥   27   14   52  大
三輪   60   13   22
中臣   22   15   68  大
秦   62   29   47
東漢   42   18   43

この表から見えること
蘇我地名の半分は物部と重複。→物部守屋討伐後の物部の財産を奪い取ったと思われます。特に蘇我馬子の妃に物部弓削大連之妹が入っており、入鹿の弟は物部大臣と呼ばれたようで、守屋の財産を奪ったのでしょう。これが一つの重なりの要因だったのでしょう。
 お互い2世代に渡って対立した大臣家と大連家ですから、洋服の青山とハルヤマの様にライバルの店の近くに出店してライバルをつぶしていくようなことがあったのかも。

中臣地名と物部地名との重複率も高いようです。中臣は物部の派生氏族と言えるのかも。祭神の経津主・武甕槌も共通しています。
和珥と物部とは石上神宮の祭祀に共にたずさわっています。また和珥系の物部首も存在しているようです。

つでに思うのは蘇我の大臣家と物部・大伴の大連家との差ですが、大臣家からは大王家の妃を出していますが、大連家は出していません。この違いについてはわかりやすく言いますと、大臣家とは江戸時代の大名、大連家は旗本と言うような区分。

[9902] Re[9901][9898][9884]: 上賀茂神社と秦氏  神奈備 2009/06/21(Sun) 09:20 [Reply]
はやとさん。
> 父は自宅で朝食後天寿を全うしました。

長期間の同行二人、ご苦労様でした。
ご自身のご健康に一層留意なされますように。
 

とみたさん
> 5世紀に馬の文化が倭国に入ってくると呪力による王権は廃れて馬や鉄具による実力時代になりますから巴形銅器は廃れますね。古墳時代前期には巴形銅器は多く、中期以降は使われなくなります。

 おっしゃる通りですね。
 5世紀以降でも例えば継体天皇の皇后の手白香皇女(仁賢帝の娘)です。この手白香(手志良加)とは水がはいった容器で土瓶のこと。新嘗祭に使用する壺のことです。皇后には血のつながりと巫女が求められました。
 手志良加を司るのは水部(もいとり)ですが、直接天皇に捧げるのは釆女の役割、これが允恭天皇の妃の忍坂大中比売が手水が凍るまで捧げていたとの説話に出てきます。

 蘇我の娘の堅塩媛ですが、堅塩とは黒塩で神餞で鮑に削ってふりかける塩です。巫女の名でしょう。

 推古天皇である豊御食炊屋姫尊とは、読んで字の如く、神に朝餞を捧げるべく神の食事を調理する姫の意だとか。これは『ヤマト王権の謎をとく』塚口義信著 を参考にしました。

 皇極天皇は飛鳥の南淵の川上で雨乞いを祈祷、見事に雨がふったと言います。これぞ巫女の仕業。

 酢加手姫皇女は用明天皇の皇女で、伊勢に赴き齋宮となり37年仕えたとされています。この頃にはまで伊勢は皇室の祖神を祀っている意識はないので、奈良県内の日神を祀る宮に居たのでしょう。酢加手とは意味がわかりませんが、透手、先が見えるような意味の名かも。
 
 面白いのは齋宮を置いたのは用明帝からで、用明さんは「信佛法尊神道」とあり、日本で初めての仏教信仰の天皇となっています。天皇が仏教に帰依する場合、子女を齋宮として神仏のバランスをとったのかもと思っています。

[9901] Re[9898][9884]: 上賀茂神社と秦氏  とみた 2009/06/20(Sat) 09:29 [Reply]
素人さん 毎々お付き合い有難うございます
 
 古代史ネタのクイズを解く感覚で遊んでいます。
> > 宇佐には宗像の海の民が入っているでしょう。宇佐の神様の本来の主は比売大神で宗像神説が有力視されています。宇佐は東大寺に銅を支援して中央と結びつきを深めます。秦氏は鉱山関係です。香春に採銅所という地名。
> > 辛島氏は秦氏の支族とされ北辰信仰のようです。鉱山関係は北極星を神格化した妙見菩薩を信ずる。
> >
> 香春の鉱山地帯に神奈備様が訪問されたお話を以前こちらで読ませていただきました。

神奈備さんは、すでに何周も前を走っておられます。私は追っかけていますが牛歩でかないません。

興味は、宇佐と宗像(胸形)との関わりです。宇佐は8世紀に銅の供出で、中央とつながりが深くなりました。胸形は天武が地方豪族胸形氏の姫を貰って高市皇子を産んで中央とパイプが深まったのでしょう。

それまでは、地方の豪族だったのでしょう。でもそれなりの豪族特有の信仰を持っていたはずです。たとえば織姫や七夕などです。それを吸い上げたのが中央ではないか。

秦氏が絡んでいるような気がしていますが?

> 古墳時代は巴形銅器や筒型銅器が伽耶地域の古墳から出土しているようです。伽耶地域との往来は古い時代からあったのでしょう。
> 巴形銅器や筒型銅器の写真が載っています。

巴形銅器は、倭国から伽耶に渡ったのではと考えています。
南島で採れる水字貝は渦巻ですから古代人はその形の不思議さに、魔除けの力を見たのでしょう。隼人の楯には巴形が付いていますね。平城京の井戸の中から見つかっています。伽耶の甲には渦巻きが付いています。

5世紀に馬の文化が倭国に入ってくると呪力による王権は廃れて馬や鉄具による実力時代になりますから巴形銅器は廃れますね。古墳時代前期には巴形銅器は多く、中期以降は使われなくなります。

[9900] Re[9897]: 隼人  はやと [Url] 2009/06/20(Sat) 09:07 [Reply]
おはようございます。
お心使いありがとうございます。

父は自宅で朝食後天寿を全うしました。
当日再入院予定で、迎えに見えて驚いて居られました。
ちょうど49日です。
そう云えば、手塚治虫、太宰治も同期でしょうか。
====>>ブログ参照、こちらは早いものでもう10年になります
   現在のサイトでは5年位でしょうか

隼人に関しては、史資料辺りからの推論をページに掲載しています。
それ以上のことは、勉強不足で、現在は掴めません。
とみたさんの新説を期待して拝見していたのでした。
====>>隼人探訪参照

現在、鹿児島神宮の境内を発掘していますが
遺物や遺構が出ても多分年代的には新しいでしょうから。。
過去にも白磁やベトナム辺りの土器が多数出土しています。
====>>鹿児島神宮参照

私は、現在平安時代辺りから江戸中期までを調べています。
こちらなら、史資料もある程度ありますから、自分なりに納得できる点が
多く見つかり興味をそそります。

この数年父の介護で手が離せませんでしたが
これからは、、、いつでも。。
中村先生や下野先生にもお会いする機会が増えます。
メッセンジャーでお届けしますよ。

[9899] Re[9895]: 謹告の訂正  神奈備 2009/06/20(Sat) 08:22 [Reply]
> 和歌山市伊太祁曽神社の奥鈴雄名誉宮司様に置かれましては今月17日にご逝去
> 20日17時よりお通夜、21日13時より告別式。和歌山市南出島の斎場にて。
>
訂正
お通夜は19時からです。

[9898] Re[9884]: 上賀茂神社と秦氏  素人 2009/06/20(Sat) 01:16 [Reply]
とみた様
書き込みが遅れてすみません。
勉強させていただいております。
> 宇佐には宗像の海の民が入っているでしょう。宇佐の神様の本来の主は比売大神で宗像神説が有力視されています。宇佐は東大寺に銅を支援して中央と結びつきを深めます。秦氏は鉱山関係です。香春に採銅所という地名。
> 辛島氏は秦氏の支族とされ北辰信仰のようです。鉱山関係は北極星を神格化した妙見菩薩を信ずる。
>
香春の鉱山地帯に神奈備様が訪問されたお話を以前こちらで読ませていただきました。
わたしもこの地域の銅鉱山関連の資料を紹介させていただきました。かなりの古代銅産地であったようです。宗像氏との関係で、銅加工品などが、伽耶地域に渡ったようです。弥生期は中広形銅矛などが、古墳時代は巴形銅器や筒型銅器が伽耶地域の古墳から出土しているようです。伽耶地域との往来は古い時代からあったのでしょう。

橿原日記 平成17年5月1日Web
http://bell.jp/pancho/kasihara_diary/2005_05_01.htm
巴形銅器や筒型銅器の写真が載っています。
手前味噌ですが、前にご紹介しました鉄澤に筒型銅器が少し似ているので吹管の先ではないかと夢想した訳です。先が開いて窓が有るのと目釘の跡が問題ですが。
鞴・羽口に比べると原始的ですが、口に吹き竹を銜えて吹くと微妙な調整が出来るのかもしれません。
思い付きばかりの青草失礼しました。

[9897] 隼人  とみた 2009/06/19(Fri) 22:47 [Reply]
はやとさん、 思い出しました。

お父さんの状態はいかがですか。

はやとさんは、本場の方ですからこちらが教えていただく立場です。

私も中村明蔵さんでしたか、隼人研究を読んだことは一応はあるんですが良く分かりません。

岩波書店の列島古代史シリーズの古代史の舞台篇、西海道の巻で小田富士雄さんと坂上康俊さんが隼人に触れておられます。それによると、律令時代に入って隼人は良く反乱を起していますね。

薩摩の阿多隼人、大隈隼人が699,702,713,720、722年に反乱しています。

隼人には調庸を出す代わりに6年交替で都に朝貢・上番する制度が適用されたのですね。これが終わるのが801年です。702年の隼人の反乱鎮圧には、筑前国島郡大領肥君猪手とその子の泥麻呂など、筑前・豊前両国の人が従軍しています。
722年にはの反乱にときも、日向・薩摩三国の郡司、市卒のほか豊後国の郡司クラスが従軍していますね。

以下は私が聞き及んだ隼人に対するイメージです。

森浩一さんは、沖縄のゴホウラ貝やイモ貝を運搬する人、一部、装飾品などに加工する人、海上、水上の運送業者。

四川の長江文明の著者の古賀登さんは、長江中流域の巴国(三峡ダム〜重慶)あたりに住んでいた、巴人は水に潜る漁法(白水郎=アマ)と鵜飼の民のようで、これが隼人の原住民とされています。

紀ノ川の五条には阿多という地名があり、阿多の植民した地で、神武東征で阿多の鵜飼民が宇陀で助けます。

隼人の本拠は値嘉島(長崎県五島列島)とされています。

神話では海幸と山幸の物語で、負ける側の海幸ですね。この物語がインドネシアに起源があるので隼人はインドネシアのスンダーランドから来たとされるのが、縄文学の大家の小田静夫さんです。その他中国の南方の越人で蛋民(水上生活者)説もありますね。

確か、神奈備さんが(森浩一さんも)、紀ノ川や淀川の水上運送(船運)も紀氏などの墓石を運んでいるのが隼人とされていたと思います。
木津川の畔に近い京田辺や大住も隼人族がいますね。これは6年ごとに交替する隼人族でしょうか。

いずれにせよ、8世紀の律令期以前の弥生時代より或いは縄文時代から海の民はいるはずです。

甑島隼人もいますね。これは3世紀、魏呉蜀の三国時代に呉の偵察隊がここにいたとか、面白い説を九州出身の元商社マンである菊池さんが隼人の本で出されています。

隼人さんの本場の隼人説を伺いたいものです。


[9896] Re[9893]: 上賀茂神社と秦氏  はやと [Url] 2009/06/19(Fri) 19:42 [Reply]
とみたさん、こんばんわ。
早速のご回答ありがとうございます。
新ネタでも出ればがぜんやる気も湧くのですが
こればかりは。。

ご承知のように
隼人の呼称に関しても専門家でも別れているようです。
古代の筑紫全域に「隼人」と呼ばれる海神族が居たとか
いや京都近在の「隼人」を指すのだとか。。

結局はこの年代は藪の中と云うことでしょうか。

[9895] 謹告  神奈備 2009/06/19(Fri) 09:30 [Reply]
和歌山市伊太祁曽神社の奥鈴雄名誉宮司様に置かれましては今月17日にご逝去
20日17時よりお通夜、21日13時より告別式。和歌山市南出島の斎場にて。


[9894] Re[9891]: 上賀茂神社と秦氏  神奈備 2009/06/18(Thu) 19:03 [Reply]
 済州島に、「東から三人の女神がやって来た。」との伝説があるそうです。ここも宇佐や宗像の比売神との繋がりが感じられます。


 『古事記』の「大年の神の系譜」については、大山咋神は「葛野之松尾」に坐すとあり、この表記は『古事記』の地名表記の例外にあたるとしています。山代国葛野と書くのが普通だと言います。即ち『古事記』そのものが葛野で書かれたと見る意見があるようです。
 さらに、松尾神社は『山城国風土記』には登場していないのに、『古事記』に出ているのはおかしいのではないか、また曽富理の神は平安京造営後に秦氏によって勧請されたとしており、「大年の神の系譜」の部分は後からの追加部分ではないかとの見解があります。

 高野新笠は光仁天皇の妃ですが、死後に皇后の称号が与えられたそうです。それまでの皇后は井上内親王でしたが、陰謀があって廃され、身分の低かった高野新笠の子の山部親王が桓武天皇になりました。高野新笠の実家は和史と言う古い渡来系氏族だったそうです。
 
 財力などでは和史氏は秦氏に到底およばない氏族だったのでしょう。

[9893] 上賀茂神社と秦氏  とみた 2009/06/18(Thu) 17:13 [Reply]
はやとさん

>外野から愉しく興味深く拝見しています。

有難うございます。素人なりにイロイロなネタを組み合わせて、眺めては自己流の見方が出来ないかまさぐっているところです。出来るだけ信用のできるネタを仕入れています。
お力を貸してください。

> 宇佐には秦氏などの渡来人が多い。隋書に書かれる秦王国です。

>推論されたベースをお伺いできませんか

遣隋使の小野妹子が隋から倭国(日本)へ帰る608年、随行した隋の特使、斐清世順路について、隋書<倭人伝>に書かれている。

百済を度り・・・南にタン羅国(済州島のこと)を望み、都斯麻国(対馬のこと)を経、はるかに大海の中に在り。又。、東して一支国(壱岐国でしょう)に至り、又竹斯(筑紫とされている)国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ・・・・


華夏は中国人のことです。中華民でしょう。華夏、東夷、苗蛮と中国の古代は分けています。
秦人と似た人が多かったからそう呼んだと考えます。

筑前・豊前の接する宇佐近辺は、渡来人が多い。正倉院にある豊前の戸籍表からは仲津郡(現在の行橋市の一部と京都郡豊津、犀川地区)の人口404人中渡来人である秦氏系人口は377人(94%)であり、上三毛郡(豊前市と筑上郡)の人口131人のうち127人(96%)が秦氏という高い比率です。この地域が秦王国があった地域と考えられている。

これは清川理一郎さんの本からの引用です(私もこの見方に以前から賛成です)。

宇佐は、日本書紀巻第一神代上第六段一書第三条に、宗像3女神が宇佐島に降り居さしむ。とされていますから宗像とつながりが深いと思います。

宗像族は海の民。潜水漁法(白水郎=アマ)も考えられます。宗像は胸形で入れ墨でしょう。

魏志倭人伝によれば、末ろ国(松浦?)の海辺では、魚や鮑を採っています。安曇と宗像の差が難しいところです。住吉族や隼人族との差も分かりません。

これが秦氏とはどう繋がるかが皆さんに訊ねたいところです。弥生時代は海の民が居てそこに4-5世紀に秦氏が中国から入ったのでしょうか。

対馬や壱岐には弥生時代から朝鮮との交易が深く、卜骨も壱岐の原の辻ではたくさん出ています。これが壱岐氏の前身か。壱岐から北九州の西新に交易拠点が移ります。その後の古墳時代に秦氏はやってきた。

宗像の市杵島姫が山代の松尾神社に祭られていることに関係があるでしょう。

8世紀になると720年豊国人が大隈に侵入して720年隼人が反乱を起こします。宇佐の八幡の人が宇佐八幡宮のご神体である薦枕を神輿に積んで鎮圧します。

769年和気清麻呂が道鏡にまつわる宇佐の神託事件で、称徳女帝の不興を買い、大隈に流される途中、宇佐郡シモトダ村で足が動かなくなったとき、300匹の野猪が助けます。シモトダ村の住民が秦氏の配下で秦氏が和気氏と親しかったと平野邦雄さんは説いています。

宇佐と宗像と秦氏そして和気氏が絡んでいそうで、長岡京ー平安京と時代は進みます。

天皇の祭祀の変遷。

律令時代は 出雲大社ー大神神社ー伊勢神宮
平安前期は 宇佐八幡ー賀茂神社ー伊勢神宮
平安中期は 石清水八幡・賀茂神社ー伊勢神宮

大神神社が消え、出雲が消され、宇佐と賀茂が勢力を伸ばします。

以上、毎度の長文で失礼しました。





[9892] Re[9884]: 上賀茂神社と秦氏  はやと [Url] 2009/06/18(Thu) 08:40 [Reply]
とみたさん、おはようございます。
外野から愉しく興味深く拝見しています。

> 宇佐には秦氏などの渡来人が多い。隋書に書かれる秦王国です。

推論されたベースをお伺いできませんか

> 秦氏は鉱山関係です。香春に採銅所という地名。
> 辛島氏は秦氏の支族とされ北辰信仰のようです。鉱山関係は北極星を神格化した妙見菩薩を信ずる。

香春から宮崎の大崩山辺りにかけ、鉱物資源の宝庫だったようです。
===>>宮崎県史 資料編 参照

当地に数百メートル置きにその「妙見神社」が点在した場所が
あります。(明治後期の合祀令で現在は無い)
それを探りに八代の妙見宮にも出懸けましたが。。。
なかなか。。

ついでながら「石敢当」は当地にも玄関口や塀に多数実在します。
福建省から移入されたそうです。
「唐人町」もありましたから頷けます。
彼等は大抵が商人で、現在も、国分界隈の大型ショップは
その末裔です。
また、寺社も建立されその名残も散見されます。
当地には多大な貢献をされた。。

[9891] 上賀茂神社と秦氏  とみた 2009/06/17(Wed) 13:44 [Reply]
琉球松さん

>済州島との関係は大いにある。沖縄の来訪神との類似が指摘できる。※祭祀に死者儀礼の要素

沖縄と済州島とやはり深い関係があるのですね。済州島の海女は伊勢志摩の海女と深いつながりがあるようです。

三角錐(円錐に近いかも)の石積も多いし巫女も多いと鳥越健三郎さんは本で書かれていました。

トルハルバン(石の爺さん)は村の守護神で魔除けですが、これは13世紀にモンゴル軍に占領された時代にモンゴルの石像が伝わったようです。

ところで、沖縄には石敢当という魔除けがありますね。魔物は曲がるのが苦手だからこの石で防ぐわけです。

これは中国の福建省から伝わったようですね。福建省の西南の貴州には福建省から逃げてきた少数民族のトン(イ同)族がいますが、この風習を持っています。

神奈備さん
>松尾大神は秦氏の祭る神で、近江の日枝山の神で松尾に坐る神で鳴鏑

日枝は比叡で、大山咋またの名は山末之大王神ですね。鳴鏑を用いる神。

匈奴など北方系騎馬民の武器で音で威嚇するので”鳴る”と書かれるのでしょう。

天忍日命つまり大伴氏の先祖がこの鳴鏑で武装しています。大伴氏はタカミムスビを祖としています。

溝口睦子さんは、天皇族はタカミムスビを奉じ、5世紀に北方の文化をもたらしたとされていますから、大伴氏を随伴したのでしょう。

忌部氏もタカミムスビを祖としてますね。

壱岐氏のツキヨミが松尾神社の摂社にあります。

壱岐氏はタカミムスビを祖としています。

秦氏と壱岐氏は繋がっていますね。

大山積は神話に良く出ますが、大山咋は神話に出ません。

これは韓神か漢神のどちらでしょう。カマド神とも関係がありそうだし。

どうも秦氏とか、高野新笠に関係がありませんか?

[9890] Re[9887][9886][9884]: 上賀茂神社と秦氏  琉球松 2009/06/17(Wed) 10:49 [Reply]
 とみたさん、こちらこそ面白い話題ありがとうございます。

 「三角錐の積石」ですけど、沖縄ではピンとこないですね。
 ただ、盛り砂が「盛り塩」と同義だとすればどうでしょうか、琉球圏全域で白砂は塩と同等の力があるとされますから、神が通る道に砂を敷いたり、旧暦3月3日には女達が海辺の白砂と海水に足をつけてケガレを払いますね。。。奈良三輪山伝説との関係あり?

 それと、済州島との関係は大いにあると思います。いろいろと言われてますが、一例を紹介します。
『南島の地名/南島著名研究センター(ボーダーインク)2005』より
*** 済州島の朝天里(チョチョンリ)の海女組織によって旧暦2月に行なわれるヨンドン祭りを取り上げる。ヨンドン神はヨンドンハルモニとも呼ばれ、女性神だという。この神は海の彼方の観念世界であるイヨドから、旧暦2月1日に来訪し、島の東端にある牛島(ソンド)から上陸し、海辺の魚介類を食べながら島を回る。(略)
 以上を要約すると、※ヨンドン神は豊穣をまたらす来訪神であり、沖縄の来訪神との類似が指摘できる。※祭祀に死者儀礼の要素が見られ、その点では沖縄のは爬龍船祭祀の様相と類似するものがある。***

[9889] Re[9885]: 神官の争い  神奈備 2009/06/17(Wed) 09:34 [Reply]
> 宇佐の神官の争いは現在でも起きているようですね!地方(神宮)と中央(本庁)との争い。

 前に明治神宮が本庁を離脱しましたが、今回は宮司人事が先に出ているようなので、宮司を除いての離脱は難しいのかも。
 「宮司」とは、その方は本庁に支持されるよりも氏子に支持されているほうが大切だと思います。
 政治家の世襲は封建社会の名残でしょうが、神職の世襲は神社財産を守ると言う意味からも大切なことと思っています。戦前の官幣大社の場合、世襲ではなかったので、お宝が持ち出されることが続いたようです。官幣中社には世襲が認められていたので、お宝の持ち出しが防げたようです。


> 立砂つまり二つの三角錐の盛り砂を置くとそこに神様が降りられる。

 祓えの神が降りるのでしょうか。


> 祭の前に神様が神山から降りていていただくためのヒモロギ。

 かっての宮司さんは神降ろしが下手だったようで、からっぽの御阿礼神事になっていたのでしょう。非常勤でもいいから、神降ろしの出来る宮司さんに声をかけていたようです。確かに下手の人の場合、素人の笛のほうであっさり降りる神をおろせないと言うことがありました。

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